元気よくまガール

日本人コントーショニストashの軟体ライフ

311のこと

震災から10年、10年が過ぎたのかと昨日は頭のなかで思ってました。私は不運を免れ運が良かったのとしか言えません。災害と言うものはどうもしようがないことでそんなことに見舞われないように生きていけたらと思うしかないのです。
平穏な世界が平穏を望むところへ届くようお祈りしています。

10年も経ったのか、とここで私の311を思い出せる範囲で書いてみよう。いつか忘れてしまった時に思い出せるように。

10年前、私は東京の八重洲でOLをしていた。金曜日の午後で少し疲れと昼食後の影響で多分うとうとしていたと思う。
地震が来てあれ?ちょっとヤバくない?大きくない?とだんだん不安とパニックがやってきました。
収まってから皆が席に戻りパソコンでいま震度何だったの?と業務か全てストップし人事の人が声掛けにまわってきてくれました。
こんな地震になるとはと軽い混乱のなか、下の階でガス漏れの疑惑も出てきて社外へ避難と言う形で外に出て皇居に向かいました。寒くて遠くまで歩くのめんどくさいなとも思った記憶があります。
皇居に着いて業務はなしで、帰宅しましょう命が出たので帰ろうかな、やった早く帰れるならバレエに行ってレッスンしたい!でも電車が動いてなくて行けないかもしれないから有楽町で買い物して帰ろうと呑気に思ってました。
皇居から丸の内に移動して電車が動くまでお茶でもして待とうかなとマルビルに入ると人が沢山。トイレもかなり並んでどうしようもなくなった人たちで溢れていました。テレビと言うかモニターがあったのでそれを眺めていると津波で全てが流されていく景色、水が押し寄せていく映像、燃えている瓦礫と共にどんどん地面を進む津波。そのショッキングな映像は今も覚えていて隣にいた上司とこんなことが現実に起こるだなんてと話しました。
駅は封鎖されてシャッターが閉まっていると言う情報が入ったので7時前には歩いて帰ろうと決意しました。徒歩だと4~5時間。若かったので帰れないよりましと考えたのでしょう。
会社の女子の同僚と途中までハイキングの様に怖いね仕事どうなるのかななどと喋りながら帰りました。
途中で皆と別れひとりで都内から埼玉に向かうことに。日暮里の消防署で埼玉方面はどっちですか?と聞いて地図を見てもらいあっちへ進んでと教えてもらい進みました。歩いて帰る人、車で移動している人で夜でも道は明るかった記憶。コンビニにはトイレの行列。公衆電話も列があり少し並んで実家へ電話して安否と帰宅してることを伝えて歩き始めました。
私は運が良く途中で都電に乗ることが出来ました。ぎゅうぎゅうでしたが乗って王子駅へ。そこから地下鉄が動いていたので地下鉄で埼玉まで出てなんとか深夜1時頃帰宅出来ました。
家も家族も無事で当時実家暮らしでのほほんしていた私はお風呂をあたためてもらいいつものベッドで眠ることが出来ました。
普段の日々が平和で困難な事が起きてからではないと人間は行動は出来ないんだなと理解しました。
最後の最後までこれは何とかなる、大丈夫なやつと思っていた心理、正常性バイアスと言うんですね。当時はそんな言葉は知りませんでしたがまさにその状態になっていたからバレエに行きたいとか買い物したいとか思っていたんでしょうね。怖いです。

もう災害なんて起こらないで欲しい、と祈ってもまたいつか何かがやってくるでしょう。
それまでいま出来ることをやる、それを心に留めて私は生きて行こうと思います。